Life, Work, Masterpieces
English  日本語
 
2003年版画芸術119号に特集として掲載

「パスカルの葦」  松山龍雄

長く外国に住んだ芸術家というのは、ほぼ例外なく、二つの問題に突き当たる。そのひとつは、自分は何者か、というアイデンテテイの問題であり、もうひとつは、自分は何人であるか、というナショナリティの問題である。そしてこの二つの問題は、裏を返せば、日本の近代美術自体が抱えた「難問」でもあった。
例えばパリのような芸術家のるつぼとなった都市で、画家として生きていこうとすれば、まず、自分は何を表現しようとするのか、という問題に解答を出さなくてはならない。他のアーティストにはないオリジナリティが表現できなければ、そこで失格。次に、その作品が他人に認められなければ、つまり端的にいって、売れるような要素がなければ、ここでも不合格となる。
 つまり、この点だけを取り上げれば、パリで長く生活できたということは、仕送りのある裕福な家柄でもないかぎり、画家として認められたということになる。単純な証明であるが、それは「芸術の都パリ」という地で、芸術に対する厳しい条件が前提とされているからこそ成り立つのである。
 岩谷 徹は1971年、35歳のときに「画家」になろうとして、夫婦でパリに旅立った。35歳という年齢を考えると、これは人生の一大決心である。美術学校は出ていないが、もちろんそれまでは独学で絵を描いていた。会社勤めの経験もあるが、それを辞めて、しかも夫婦共に「画家」志望という決死のパリ行きである。パリに絵の勉強に行くのではない、画家として立つために行く、この強固な意志こそが岩谷 徹をアーティストたらしめた原点であるといえよう。
 岩谷氏から30年間のパリ生活の様々なエピソードを聞いていると、失礼ながら版画の話よりずっと興味深い。というのは、この人の生活ぶりこそ、画家としての本質的な面が垣間見られるからである。

驚くことに氏は、30年の間、一回も住居を変えなかったと言う。パリ到着後のホテル生活の後、17世紀に建てられた中心街のアパルトマンに移り住むが、そこはトイレは共同で、シャワー室もない。食事はほとんど自炊でタイ米とフランス大麦の麦メシという生活を続けたそうだ。
 もちろん余計な出費を抑えるという意味もあるだろうが、そこには「信念」のようなものが強く感じられる。また、日本人の画家仲間とのつき合いもほとんどしなかったと言う。そんな暇はない、作品を制作しなければならないからである。
 そして、パリ生活3年目に、契約を結んでくれる画廊が現れた。日本の美術界とは違って、一般的に欧米の美術界では、美術団体の会員とか、大学教授の肩書きとか、どこかのコンクールで受賞したぐらいでは評価されない。その画家に画廊がつくかどうか、つまり作品が売れるかどうかが、最初の関門なのである。
 後に師と仰ぐ浜口陽三に会ったとき、「パリという所は3年以内に画商がみつからなければ何十年いても駄目だ」と言われたことが一番印象に残っているという。浜口氏は別に版画についても、技法についても教えるようなことはしなかった。そんなものは自分で掴み取らなければ、作家として生きていけないことは自明だからである。
 岩谷氏はすでに日本にいるときから、油絵とともに独学で銅版画の制作も始めていた。パリではW.ペインターが教えていたアトリエ17にも半年ほど通っているが、推測するに、それは履歴に記すぐらいのためで、ペインター式の技法を習得すればそれで十分という様子だ。基本的には独立独歩、自分流のスタイルを貫き通すというタイプの画家である。
 渡仏後、初期のメゾチントはキリコやマグリット風のシュルレアリスム的なイメージや、道化師、仮面、能面などをモチーフとした作品が多い。周知のごとく、メゾチントは銅版の目立てに膨大な時間を要する。数版を使うカラーメゾチントとなるとなおさらである。ではなぜ、そんな面倒なメゾチントを選んだのか。

 それは、当時フランスではメゾチントを制作する作家が少なかったこと、また、無名である自分が画家として認められる最短の技法であったからである。では、メゾチントで何を表現しようとするのか。それは、ひとことでいえば「空間」である。メゾチントでなければ表せない「黒」の中に、何ものかが存在するという象徴的な空間である。
 シュルレアリスム的な画面や道化師などのモチーフは、あえていえば、西洋人にわかりやすくするためだと言う。確かに、能面を宙に浮かせた作品においても、下部や背景に紅葉や森や文様をあしらったりして、やや説明的な感じもする。しかし、いきなり、「禅」や「幽玄」を持ち出しても、それではあまりにもジャポニズム丸出しになってしまう。あくまでも、西洋という土俵に立ってこその表現であり、「日本」なのである。
 これが文字通り、日本という風土であったなら、まったく違った表現となっていたかも知れない。あいまいな個人、あいまいな人間関係、あいまいな自然と社会、裏をかえせば、それこそが日本を取り囲む、あいまいな「空間」の正体であるかも知れない。
 そして次に、パリという異国の地で、西洋人に認められようとしている自分とは一体何者なのか、という第二のナショナリティの問題がわき起こってくる。あるいはフランスという異郷に住んで、様々な国からやってきた芸術家たちのるつぼで、自分を表現しようとする己の背中には、ではお前は何人であるかという自問がすでに貼り付いているのである。
 岩谷氏は実はフランスに暮した30年というものを、ずっと日本と日本人について考えていたのではないだろうか、という気がする。そうでなければ、まるで禅僧のようなつつましい生活を、30年続けられるはずがない。もちろんその「日本」とは、現代の、現実の日本ではない。異郷の地で純化された「理想の」日本と日本人であろう。
 そして1985年、岩谷氏は思わぬ苦境に立たされる。腎不全を患い、人工透析から腎移植という人生の正念場を迎えている。以後十数年間、腎臓病と闘いながらの制作が続けられることになる。作品の「空間」も、この時期から少しずつ変貌していく。

 画面から一つずつモチーフが消えていくように、次第に穏やかな「瞑想」空間に入っていく。寂しいようでありながらも、どこかに華がある。枯れているようでありながらも、どこかに強靭さがある。絵柄で説明しようとするのではなく、画面全体で語りかけようとする。あるいは、自然に画面の中に引き込まれていく。―それが真に「日本」的な空間であるかどうかは、この際あまり重要なことではない。岩谷氏がそういう境地にたどりついたということの方が重要なのである。
 岩谷氏のメゾチントは、これも30年間変わらず、ベルソーを使って目立てをしている。現代では、機械を使って自動的に目立てをする版画家も多い。それによって、製版の前段階の膨大な時間を短縮することもできるからだ。しかし、問題は時間を節約することでもなく、数多くの作品を制作することでもない。一見、無駄のようにも見える準備の時間を、どのように作品の「空間」の中に封じ込めるかが問題なのである。
 2年半ほど前、様々な事情で、岩谷夫妻はパリでの生活を切り上げ、故郷の福島県郡山にもどった。ようやく日本での制作も軌道に乗り、昨年秋にはワシントンDCでの5人の版画家による現代日本版画展に参加し、メゾチントの講演も行った。今年は銀座.兜屋画廊での個展も開催される。
 今度は、日本に住んで、「西洋」をいや「世界」を考える状況となった。しかし、しゅくあと闘いながらも、異郷で30年間培ってきた芸術家の魂はまだまだ強靭である。
 かつて、やはり病弱であったパスカルの「パンセ」の有名な一節、「人間は自然の中で最も弱い一本の葦に過ぎない。しかし、それは考える葦である」―世界の中の小さな者でも、その思想は世界を含むことができる。「芸術」もまた―。岩谷 徹はそこに自らを賭けようとする。(本誌編集長)